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文系の方々も「理」の心を(1)
2004年11月13日
宇佐美 保
私は、以前に、《マスコミの方々も科学への理解力を養ってください!》と、《文系理系と何故分ける?》をホームページに掲げ、文系理系とまったく別な人類が存在するかのような現在の日本社会に対して抗議の声を上げました。
特に、困ったことは、わが国のオピニオン・リーダーの大部分が、いわゆる「文科系人類」の枠内で自ら進んで安住されていることです。
その端的な例を雑誌『正論(平成16年11月号)』での、安倍晋三氏(衆議院議員)、桜井よしこ氏(ジャーナリスト)、八木秀次氏(高崎経済大学助教授)の鼎談“今こそ呪縛憲法と歴史漂流からの決別を”に見ることが出来ます。
(そして、副題として「いったい何が日本を衰弱させているのか。国家観と歴史観を建て直すカギはどこにある」と掲げられているのは皮肉でもあります。)
この鼎談の最後の部分を抜粋させて頂きます。
先ず、安倍氏は次のように憲法改正論をぶち上げています。
私は三つの理由から憲法を改正すべきと考えています。 一つ目は現行憲法はニューディーラーと呼ばれた左翼傾向の強いGHQ内部の軍人たちが──しかも憲法には素人だった──短期間で書き上げ、それを日本に押し付けたものであること。国家の基本法である以上、やはりその制定過程にはこだわらざるを得ません。 二つ目は、昭和から平成へ、二十世紀から二十一世紀へと憲法ができて六十年近く経って、第九条を筆頭に明らかに時代にそぐわなくなっている条文があること。これは日本にとっては新しい時代への飛躍の足かせとなりかねません。 三つ目は、新しい時代にふさわしい新しい憲法をわれわれの手でつくろうという創造的精神によってこそ、われわれは未来を切り拓いていくことができると思うからです。┈┈┈┈ |
更には、
櫻井 現行憲法が体現している価値観は、その起草者であるアメリカでさえももう非現実的であるとして、とうの昔に改変を加えているわけです。日本だけがバーチャルな世界に取り残されてきたわけです。その結果として、日本人が精神的に成長し得なかった事実は悔やんでも悔やんでも悔やみ足りない。今、どの世論調査を見ても憲法改正は多数派となりました。本来の自民党らしさを発揮して、果敢に憲法改正に挑んでほしいと思います。 八木 繰り返しになりますが自民党が結党時の理念を思い起こし、自民党らしさを発揮することが自民党の再生につながる。延いては日本国の再生にもつながるという自覚と自負心を持っていただきたい。ご不快になるのを承知であえて申し添えれば、決して政局における取引の材料とすることなく、聢とそれを胸に刻んでいただきたい。そして新しい憲法は、ぜひとも日本の香りがする、そういうものにしていただきたいと思います。 櫻井 その香りを大事にしていただきたいと思います。 安倍 日本人が守らなければならないと思い、ずっと長い間積み重ねてきた価値観ときっちり向き合うことが自民党が原点に還るためのカギだと思います。一緒に暮らす家族、自分が生まれ育った地域、自分を受け入れている社会、郷土の総体としての国、父母、祖父母、それに連なる祖先とこれから産まれてくる子孫との絆、今日の自分を育んでくれた日本の歴史や文化、伝統、そういうものを虚心に大切と思う心こそが日本を守り、われわれが自ら起つことにつながっていく。 政治家になったのは何のためかを自問したとき、私はこれらのものを守るためなのだと改めて噛み締めています。 |
私は、この鼎談内容を実に奇異に感じるのです。
特に奇異に感じるのは、
安倍氏の“その制定過程にはこだわらざるを得ません”
八木氏の“新しい憲法は、ぜひとも日本の香りがする、そういうものにしていただきたい”、
桜井氏の“その香りを大事にしていただきたい”
これらを受けての、
安倍氏の
“今日の自分を育んでくれた日本の歴史や文化、伝統、そういうものを虚心に大切と思う心こそが日本を守り、われわれが自ら起つことにつながっていく”
憲法は、確かに国民の行動を規則つける根本の規則です。
ですから、憲法は、科学(物理)の世界では、「ニュートンの万有引力の法則」、又「アインシュタインの相対性理論」でもありましょう。
そして、物理学上の諸問題を解決する際に、ニュートンはイギリス人だし、アインシュタインはドイツ人で、日本人でないから、彼らの理論は用いず「日本人が独自にそれらの法則を生み出し、その法則を用いるべき!」との愚論を吐く人は、科学に携わる人の中には皆無です。
なのに、文系ドブ浸かりの方々は、このような暴論を平気で吐きまた、それが暴論であると気が付かないことに辟易するのです。
そして、八木氏、桜井氏は
“新しい憲法は、ぜひとも日本の香り” |
と語っておられますが、私達が現在纏っている衣装は、和服ですか?
そんなことはありません。
ほとんどの方々の衣装は、洋服です。
数ヶ月前、プロ野球への参画を希望したライブドアの堀江社長の服装が、“背広、ネクタイ姿”でないことに怒り狂った方々が居られ位です。
しかも、「和服」が日本古来の服装なのでしょうか?
先日、テレビで、京都の時代祭りに関する逸話が紹介されていました。
その中で、時代祭りの行列に参加する「小野小町」の衣装が紹介されました。
そして、その衣装は、百人一首の絵で御馴染みの「十二単」ではなく、唐の楊貴妃のような衣装でした。
何しろ日本では、奈良時代、遣唐使(又、遣隋使)の努力等により多くの中国(唐)文化を取り入れることが出来たわけですから。
そして、その時代の(公式的な)服装は唐様式であったわけです。
(背広ネクタイでもありません)
その上、《平凡社の百科事典》には次のように記述されています。
……正倉院宝物が奈良盛期の聖武天皇遺愛の品々であるとともに,大仏開眼会の供養の品が中心となったためである。これらによって,アジア文化の精華が結集し,唐,西域,インド,イラン(ササン朝),さらには東ローマにまで至るシルクロード沿いの国々,さてはまた林邑などの南海の国々の影響を目のあたりに開示する。…… |
更には、戦後の日本は、米国文化に憧れ、真似をして、今日に至っているのではありませんか?
住居にしても、職場にしても、米国の影響を受けています。
多くの若者たちは、悲しいことに、平気でテーブルの上に足を投げ出しています。
又、奈良時代に話を戻しますと、桓武天皇に対して、《平凡社の百科事典》には、次のように記述してあります。
渡来人系の卑母から生まれた山部王は親王として中務縁となっていたが,772年井上皇后と他戸皇太子が位を追われ,非業の死をとげる事件が起こり,代わって山部親王が37歳で皇太子に立てられ,781年(天応1)即位した。 |
又、わが国の宗教の根幹を成す「仏教」については、次のように記述されています。
仏教は一部の渡来人系の子孫のなかではすでに6世紀の初めに信奉されていたと考えられるが,公式の伝来は百済の聖明王が釈梼仏像と経典その他を朝廷に献上したときとされる。この仏教公伝の年について538年説と552年説があるが,今日では《上宮(じようぐう)聖徳法王帝説》や《元興(がんごう)寺伽藍流記資財帳》により前者の538年(宣化3)を公伝の年と考える学者が多い。 |
否!日本の宗教の根幹は「神道」だとおっしゃる方も、当然ございましょう。
では、又、百科事典のお世話になりましょう。
神道という語は,《易経》の観の卦の彖(たん)伝に,〈天の神道を観るに,四時久(たが)はず。聖人神道を以て教を設けて,而うして天下服す〉とあるのが初見とされ,人間の知恵では測り知ることのできない,天地の働きをさす語であった。そしてその後,神道の語は,道家や仏教の影響下で宗教的な意味を持つようになり,呪術・仙術と同じような意味でも用いられた。漢字・漢語の受容によって表記が可能になった日本では,《日本書紀》の編述に際して,用明天皇即位前紀に〈天皇,仏法を信(う)けたまひ,神道を尊びたまふ〉とあり,孝徳天皇即位前紀に〈(天皇)仏法を尊び,神道を軽(あなず)りたまふ。生国魂社の樹を駒(き)りたまふ類,是なり。人と為(な)り,柔仁(めぐみ)ましまして儒を好みたまふ〉と見えるように,神道という語が,仏教,儒教に対して土着の信仰をさすことばとして用いられている。しかし,明確な教義を持たず,農耕などの儀礼を中心とした生活習慣そのものであった神々の祭祀を,仏教や儒教と同列に考えることは種々の無理があったことはいうまでもなく,上記の例も中国を意識した文章上の配慮から神道の語を用いたものと思われる。《古事記》や《日本書紀》では,本教,神習,神教,徳教,大道,古道などの語もカミと読ませているところからもうかがえるように,カミということばの表記も一定しておらず,神道という語もそれらの一つでしかなかった。日本の土着の信仰を,神道と呼ぶことは,中世に入っても一般化してはおらず,神道の語をカミそのもの,あるいはカミの働きをさすことばとして用いている例は少なくない。他方,神仏習合が進み,僧侶が土着の信仰を指すことばを求め,神官が神々への信仰を主張しはじめると,神道という語が土着の信仰とその教説をあらわすものとして用いられるようになった。 |
このように、日本の土着の「カミ」も“神道の語は,道家や仏教の影響下で宗教的な意味を持つようになり”と書かれているように、外国の影響を受けています。
一体“日本の香り”とは何なのでしょうか?
今の日本に、これぞ「日本人」と尊敬したくなる方々が、どれほど居られるのでしょうか?
少なくとも、テレビに映し出される政治家達にはうんざりです。
そして、その政治家たちの太鼓持ち的なジャーナリスト達にもうんざりしています。
安倍氏の“その制定過程にはこだわらざるを得ません”との発言の類に対して、「平和憲法」が世界に誇れる憲法であるなら、その「平和憲法」の制定過程(「氏素性」)に拘りを持つことの愚かさを拙文《平和憲法は奇跡の憲法》にも記述しましたので、ここでは敢えて取り上げません。
でも、おかしいではありませんか?
安倍氏は “第九条を筆頭に明らかに時代にそぐわなくなっている条文がある” と、桜井氏は“日本だけがバーチャルな世界に取り残されてきたわけです。その結果として、日本人が精神的に成長し得なかった事実は悔やんでも悔やんでも悔やみ足りない。” 発言していますが、冷戦後の今、世界が平和に向かおうとしていた時に、国連の決議さえ無視してイラクに対して武力行使を行ったのは米国であり、おろかにもこの行動を支持したのは、我が日本と英国などの一部の国々でした。
世界の国々は、武器を捨て平和に向かう流れでもあったわけです。
なのに、わが国は、時計の針を逆戻りさせようとする米国に加担してしまったのです。
「平和憲法」に背を向けて!
ところが、3氏は、「平和憲法」を否定して、桜井氏などは“その結果として、日本人が精神的に成長し得なかった事実は悔やんでも悔やんでも悔やみ足りない”と驚くべき発言をしている上に、「新しい憲法は、ぜひとも日本の香りがする、そういうものにしていただきたい」と発言されていますが、この方々は、聖徳太子の「17条の憲法」をご存知でないのでしょうか?
失われてしまった「日本」を過去に遡って求めてゆくと、先に掲げた、遣唐使の影響、仏教の伝来など日本国の基礎が築かれた、奈良時代に行き着くといっても過言ではないと思います。
そして、その奈良時代の中核に位置されておられたのが聖徳太子で、その太子が制定されたのが「17条の憲法」ではありませんか!?
そして、その第一条を、3氏はご存知でないのでしょうか?
((http://www.j-texts.com/jodai/17joah.html)
より抜粋させて頂きました。)
一曰。以和為貴。無忤為宗。人皆有党。亦少達者。是以或不順君父。乍違于隣里。然上和下睦。諧於論事。則事理自通。何事不成。 一に曰く、和(やはらぎ)を以て貴(たつと)しと為す。忤(さか)ふること無きを宗(むね)とせよ。人、皆な党(たむら)あり。亦達(さと)れる者は少し。是を以て、或は君父(きみかそ)に順(まつろ)はず、乍(また)隣里(さととなり)に違(たが)ふ。然れども上和(やは)らぎ、下睦(むつ)びて諧(ととの)へば、事を論(あげつ)らはむに、則ち理(ことわり)自ら通(かよ)へり。何事か成らざらむ。 |
“和を以て貴しと為す”如何でしょうか?
日ごろの生活で、争いごとを極端に嫌う日本人にぴったりの言葉ではありませんか!?
この条文こそが、最も「日本の香り」のする条文ではありませんか?!
そして、この条文を引き継いでいるのが「平和憲法」ではありませんか!?
そして、次の第2条は
二曰。篤敬三宝。三宝者仏法僧也。則四生終帰。万国之極宗。何世何人非貴是法。人鮮尤悪。能教従之。其不帰三宝。何以直枉。 二に曰く、篤(あつ)く三宝を敬(いやま)へ。三宝とは仏法僧(ほとけのりほうし)なり。則ち四生(よつのうまれ)の終りの帰(ところ)、万国の極宗(おほむね)なり。何(いづ)れの世の何れの人か、是の法を貴ばざらん。人尤(はなは)だ悪しきは鮮(すくな)し。能く教ふれば之に従はむ。其れ三宝に帰(よ)らずば何を以てか枉(まが)れるを直(ただ)さむ。 |
このように聖徳太子は仏教を信奉され、《三経義疏(ぎしよ)》を著したり、四天王寺を建立したりと、仏教文化の推進者でおわしたのです。
そして、私達日本人の心の奥深くには、仏教の心、お釈迦様の教え(お言葉)が生き続けているのです。
そして、私が最も敬愛しているお釈迦様(ブッダ)のお言葉を、中村元編著:主婦の友社発行の《仏教の言葉 生きる智慧》から、次に引用させていただきます。
母がひとり子をまもるように あたかも、 母が己がひとり子を身命を賭しても譲るように、 そのように一切の生きとし生けるものともに対しても、 無量の(慈しみの)心を起こすべし。 出典:「スッタニバータ」一四九 父母がわたしたちを慈しんでくれたように、子どもたちにも愛情を注ごう。いや、もつと大勢の、一切の生きとし生けるものへ、愛情を注ぐことができれば、どんなに素晴らしいことであろう。仏教の精神は「慈悲」ということばによって表される。慈悲は愛憎の対立を超えた純粋の愛である。 憎しみを蔵する世俗の愛ではない。純粋の愛(慈悲)は、父母の子どもにたいする愛情にたとえられる。しばしば慈は父に、悲は母に配される漢字の成り立ちからみると、慈悲のそれぞれを父母に配したことにも意味があるように思われる。 …… ●
慈しみ ブッダとはすなわち慈しみの人である。『観無量寿経』には「仏心というは大慈悲心これなり」といい、『スッタニバータ』には「全世界に対して無量の慈しみの意を起すべし。上に下にまた横に、障礙なく怨恨なく敵意なき(慈しみを行うべし)」(中村元訳『ブッダのことば(一五〇)』)、「すでに生まれたものでも、これから生まれようとするものでも、一切の生きとし生けるものは幸福であれ」(同書一四七)とある。 |
わが国の首相の小泉氏は、このブッダのお言葉をご存知なのでしょうか?!
イラクに大量破壊兵器がなかったと判明した時点でも、自己の正当性を主張し続けます。 例えば、朝日新聞(2004/10/13)では、次のようです。
小泉首相は13日、衆院本会議での代表質問に対する、
「イラクへの武力行使は、イラクが国連安保理決議に違反し続け、国際社会が与えた平和的解決の機会を生かそうとしなかった、との認識に基づく」と答弁し、イラク戦争支持は正しかったとする従来の主張を繰り返した。 |
との小泉氏の発言態度は、私には「屁理屈」としか思えません。
小泉氏は、米国のイラク攻撃で、多くのイラクの母と子供が殺されているのです。
更に、米軍によるイラク中部ファルージャの総攻撃については、毎日新聞(2004年11月10日)の記事を抜粋させていただきます。
小泉純一郎首相は9日、米軍によるイラク中部ファルージャの総攻撃について「成功させないといけない。治安改善がイラク復興支援のカギだから」と述べ、事実上支持する考えを表明した。自衛隊が活動するサマワの治安悪化に波及する危険性に関しては「まず治安を回復しないと、ますますテロリストグループが混乱させようと動いている」と強調した。 |
小泉氏は“治安改善がイラク復興支援のカギだから”と語っていますが、治安を悪くさせたのは、米国のイラン侵略、破壊であり、それを又、日本は支持し続けているのです。
又、不幸にも、香田証生さんが武装グループに拘束され殺害された際に、「残虐非道な行為に改めて憤りを覚える。……断固たる姿勢でテロとの闘いを継続する」と発言しています。
確かにテロの行為は「残虐非道な行為」です。
では、米軍等のイラク攻撃は「残虐非道な行為」ではないのですか?!
私には、同じように、あるいはそれ以上に「残虐非道な行為」であると思えます。
更には、「残虐非道なフセイン」を排除したのだから、米軍の侵攻は正当化されると「屁理屈」を吐かれますが、何故そんなフセイン大統領に日本は多額のODA援助を提供したのですか?!
イラクに存在する「中曽根ロード」とのご立派な道路は、一体何なのですか!?
「残虐非道なフセイン」と知りながら日本は彼を長年援助し続けてきたのは何故ですか?!
「国益」のためですか?
しかし、「国益」と言えば、全てが正当化できるのですか?!
先にも引用させて頂きましたが、ブッダは「全世界に対して無量の慈しみの意を起すべし」と教えて下さっております。
世界中で、どこの国も「国益」、「国益」と唱えていれば、世界は平和になるのですか?!
そんなことはない筈です。
ブッダの次のお言葉も引用させていただきます。
自分を愛することは他人を愛すること どの方向に探しもとめてみても、 自分よりさらに愛しいものを どこにもみいださなかった。 そのように、他人にとっても、 それぞれの自己が愛しいのである。 それゆえに、自分のために他人を害してはならない。 出典:「ウダーナヴァルガ」 このことばにおいては、この世で自分よりも愛しいものは存在しないこと、誰にとつても自分自身が一番大切なものであること、こういう人間の利己的な側面がはつきりと認められている。人は自分自身を大切にする気持ちは忘れないが、それに反して、他人をも「一個の人間」として尊び、敬う気持ちは失いがちである。 仏教は、わたしたちが利己的であるというきびしい現実を認めることによって、みんながそのことを自覚し、他者のことをわが身にひきくらべて、たがいに思いやりやいたわりの心をもたねばならない──、と教えるのである。 自己を大切にする人は、他人をも大切にする人である。 その自己は、たがいに対立し、相争うような自己ではなく、他人と支えあうことによって実現される自己を理想としている。 |
ブッダの説かれておられる世界は、米国一国支配の世界ではないのです。
どちらかと言えば、国連重視の世界では?
ところが、米国も、小泉首相も、イラク攻撃の正当性を、イラクに大量破壊兵器が無かったと判った時点からは、「イラクへの武力行使は、イラクが国連安保理決議に違反し続け、国際社会が与えた平和的解決の機会を生かそうとしなかった、との認識に基づく」との見解を発表しているのです。
国連を無視して(あるいは又、強引に国連決議を曲解して)イラクに攻撃しておいて、自らの正当性を論じる段になると、国連を持ち出すとは、厚顔無恥も甚だしいではありませんか!?
文系の方々も「理」の心を(2)へ
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